[ 案内板(2025 05 03)]
上野原宿から鶴川宿へは河岸段丘を下りる坂道が続きます。
国道20号は上野原から甲州街道と大きく離れたルートになるので、甲州街道は人ひとりが通るのに精いっぱいのところどことにあります。
狭い道への入り口は、上野原市が建てていると思われる案内板がないと見過ごしてしまうので、街道をたどる人にとっては頼もしい存在です。
大きくはない案内板ですが、赤と白が使われ目立つので周りの景色を見ながら歩いていても気が付きます。
[ 鶴川宿入口(2025 05 03)]
鶴川宿の江戸寄りを流れている鶴川は、山梨県内では桂川と呼ばれている相模川に合流します。
川の流れが早いので、昔は大雨が降ったあとは川を渡れず足止めされていました。
鶴川を渡り少し上ると鶴川宿に入ります。
鶴川より一段高い小さな平地に川と並行して街道が走り、こじんまりと両側に民家が並んでいます。
鶴川宿の甲州街道は国道20号からはずれたため、街道は地元の車が時折通るだけで静かなところです。
ここも火災にあい旅籠などの建物は残っていませんが、都会にはない地方の穏やかな街並みが感じられます。
[ 鶴川宿(2025 05 03)]
鶴川宿を出ると河岸段丘を上る緩やかな道になり、両脇は畑が広がり雉の鳴き声がよく聞こえました。
中央高速道を渡ると日本橋から19番目の大椚一里塚跡の碑が置かれています。このあたりは敷地の広い民家が多く、街中では見られないような大きな鯉のぼりが揚げられていました。
甲州街道から上野原テクノ&リサーチパークという施設に入る道があり、その先に帝京科学大学のキャンパスがあります。街道沿いには学生向けのアパートはなかったと思いますが、学生はどこに住んでいるのでしょうか。
[ 鯉のぼり(2025 05 03)]
[ 中央高速道の旧道(2025 05 03)]
甲州街道は大椚の一里塚跡付近から中央高速道の南側に移ります。
樹齢600年と言われる杉がある吾妻神社を過ぎると、高速道路工事で付け替えられた味気ない道になり、談合坂サービスエリアの手前で橋を渡り高速道路の北側へ。
橋は上り下り6車線の中央高速道と車が通っていない道路の上に架かっています。
車が通っていない道路は昔の中央高速道下り線で、上り線2車線は一般道として使われています。
中央高速道の談合坂SAより東京側は、4車線を6車線に増やすのにあわせて、カーブを緩くするために部分的に道路の付替えが行われました。その結果として高速道路の「旧道」が誕生しました。
[ パラグライダー(2025 05 03)]
野田尻宿が近づくと山の合間に畑が広がり、山の際では空を散歩しているパラグライダーが見えました。
低いところを飛んでいるパラグライダーもいますが、飛び立った場所に戻れるのでしょうか。
下は畑が広がり道路も通っているので、着地は難しいと思います。
[ 野田尻宿(2025 05 03)]
宿内の街道は500mほどのまっすぐな道で旅籠だった建物は残っていませんが、宿場らしい趣のある民家が見られます。
道幅は比較的広く陽が差し込み明るい感じの宿場跡です。
野田尻宿の南側は中央高速道の擁壁が連なり、その向こう側には下り線の談合坂サービスエリアがあります。
甲州街道を歩いても「談合坂」なる坂には出会わないので、「野田尻SA」でも良かったのではと思います。
5月の連休なので談合坂サービスエリアの入口は大渋滞でした。
[ 談合坂SA入口渋滞(2025 05 03)]
[ 狭い甲州街道(2025 05 03)]
野田尻宿から犬目宿への途中は、山の斜面を横切る舗装されていない道が多くあります。
道の横が竹林になっているところは、猪がタケノコを掘り返したような跡があり、杉林になると狸の巣穴と思われるところから、鳴き声が聞こえました。
このようなところで畑を作るのは大変です。
木の枝が倒れ道を塞いでいるところは、しゃがみ込んで通らなければならず、木に毛虫がついているかも、と思うと背筋がぞっとします。
それでも谷側は転落しないように柵があるので、少しは安心できます。
[ 甲州街道からの眺め(2025 05 03)]
谷側の木がなくなると里山の風景が広がりますが、残念ながら富士山は見えません。
目の不自由な座頭が坂から転がり落ちて亡くなった、という言い伝えがある「座頭転がし」を過ぎると、集落があり舗装された道になります。
この集落には尾張藩の定宿があり、今も立派な塀が取り囲んでいます。
集落の先で県道に入ると屋上に「ISHIGAKI」と掲げられたホテルかと思える建物が見えてきます。
会社案内がないので、何のための建物か分かりませんでしたが、調べると金型を作る会社だそうです。
[ 犬目宿(2025 05 03)]
県道の緩やかな坂道を進むと犬目宿に入ります。
犬目宿は1970(S45)年に火災があったため、沿道の建物は比較的新しく宿場だったとは思えない感じです。
街道沿いに宿場跡の石碑や案内板があるので、かろうじて宿場だったことを知ることができます。
明治天皇御小休所址は民家の庭にあり、本陣跡は案内板を見ないと場所が分かりません。
[ 恋塚一里塚(2025 05 03)]
甲州街道はゴルフ場を避けるように舗装された県道を進みますが、途中で森林への入口のような山道に入り、県道に戻ると恋塚一里塚があります。
峰続きだったところを開削し街道を通したため両側に小高い場所が生まれ、それ利用して一里塚が造られたようです。
現在は南側しか残っていませんが、高さ5m、直径12mの大きさがあります。
恋塚という地名の由来は分かりませんが、「恋塚一里塚」という名称はここに来ると恋愛が成就しそうな響きが感じられます。
[ 恋塚の石畳(2025 05 03)]
恋塚一里塚の先に江戸時代から残る石畳があります。
県道と集落を結ぶ短い区間ですが、木立の中を通り古の雰囲気が感じられます。
ただ、勾配は急なので石畳が濡れている時など、ゴム底の靴では滑るので要注意です。
[ 雲に隠れる富士山(2025 05 03)]
恋塚の石畳を過ぎると、大月市に入ります。
南側の木々が途切れると、富士山が見えるようになりますが、白い雲がまとわりついていました。残念。
大月市に入ってからは、ところどころショートカットする旧道もありますが、ひたすら舗装された県道を下ります。
中央高速道をくぐると国道20号にぶつかり下鳥沢宿に入ります。
[ 下鳥沢宿(2025 05 03)]
下鳥沢宿は諏訪寄りの上鳥沢宿とは1km弱しか離れておらず、月の半分ずつ宿場の役割を担っていました。
国道沿いは大きな軒の建物が連なるところもあり、宿場町らしい雰囲気を醸し出していますが、1906(M39)年の火災以降に建てられものです。
JR中央線が1903(M36)年に甲府駅まで開業しているので、火災後は旅籠の需要は少なかったと思うので、商家や農家として建てられた建物なのでしょうか。
[ 小林畳店(2025 05 03):TORISAWA COFFEE ]
古い建物を生かして新しい商売を始めているお店もあります。「小林畳店」と大きな看板を掲げている建物は、下に小さく「TORISAWA COFFEE」の看板を出し、カフェに変身していました。 カフェの看板があまりにも小さいので、中を覗き込んで初めてカフェの存在に気付くようなお店です。 このあたりは喫茶店などが見当たらないので、コーヒー好きにはありがたいお店です。
[ 上鳥沢宿(2025 06 29):旅籠だった建物 ]
JR鳥沢駅前交差点を挟み甲府側が上鳥沢宿で、交差点の近くに明治期に建てられた旅籠が残されています。
道路側の建具はアルミサッシのガラス戸に取り換えられていますが、大きく張り出した軒は見応えがあります。
郵便局を越えた先には問屋場だった建物が残されていますが、二階部分は養蚕のために増築されたそうです。
その先にも大きな軒を持つ民家が並び、宿場だった頃を思い起こさせる街並みですが、宿場だったことをPRする案内板ありません。
[ 上鳥沢(2025 06 29)]
国道20号になった甲州街道は、日曜日だったためか交通量は多くありませんが、バイクが騒音をまき散らしながら走り抜けていくのが耳障りです。 下鳥沢宿に比べ上鳥沢宿の国道20号は歩道が広いので、車を気にせず歩け空も広く開放感がります。
[ 丘の上の住宅地(2025 06 29)]
宿場をはずれ桂川沿いを歩いていると、対岸にある丘の上部が平らに削られて住宅地になっているのが見えます。
山梨県内の中央線には駅からエスカレータやエレベータでアクセスする住宅地がありますが、ここの住宅地は駅から遠いので、駅への交通を心配してしまいます。
それとも近くに働き口があるのでしょうか。